つぶや記

京都で大学生をやっている松岡智之です。 新聞記事に突っ込んだり、読んだ本の感想なんかを徒然なるままに執筆します。

北京オリンピック

日本の政治家は何やってんだ−チベット問題

中国の胡錦濤国家主席が来日した時、チベット人やウイグル人の虐殺や毒ギョーザなどの問題について誰が毅然とした態度で胡錦濤と接することができるか気になっていたが、それについてしっかりと言うべき事を言ってくれたのは安倍前首相だけだった。

安倍前首相は日本の歴代首相と胡錦濤が集う晩餐会で、「チベットの人権問題について憂慮している。ダライ・ラマ側との対話再開は評価するが、同時に、五輪開催によってチベットの人権状況がよくなったという結果を生み出さなければならない。そうなることを強く望んでいる。」と発言した。まわりは皆「空気を読んで」険悪なムードになることを避けるために中国のご機嫌を損ねる発言はしなかったが、その中で唯一安倍晋三だけが当たり前の事を言ったのだ。

日本では最近「KY」という言葉が流行っている。「KY」とは「空気を読めない」の略語だ。マスコミやネット上では、この発言をもって安倍前首相をKY扱いすることがある。
言ったら面倒なことになりそうな事は言わないということは処世術としては有効な場合もあるだろう。しかし、外交の場において、目先の面倒事から逃げるためにするべき主張をしないことは全くナンセンスである。戦後の日本外交はその連続だった。韓国や中国とは国家主権に関わる重要事項でる領土問題を放置して目先の利益のために国交を結び、多額のODAを献上してきた。日本は侵略を受けているのに、その対応は信じられないくらい甘い。歴史についても、従軍慰安婦強制連行や南京大虐殺、化学兵器の遺棄など、存在が強く疑われている事について、日本の政治家は論争を張ることを恐れて「謝罪」という安易な道を選んだ。かつて国のために命をかけて戦った人々の名誉と国家の信義よりも、自らの保身を優先したのだ。

これはKY文化の重要な側面だ。単一民族の農耕国家であれば、その発想は悪くはないだろう。しかし、自らの利益のために主張をぶつけ合うことが当然視される国際社会で「空気」を読んでいては始まらない。日本人の勝手な美徳は日本国内にのみ通用するのだ。

それに、晩餐会の場において「KY」だったのは安倍前首相かもしれないが、世界的に見て「KY」なのは、チベット人虐殺について沈黙している日本の政治家(安倍氏を除く)だろう。外国から見て、日本はどう見られているだろうか。パンダに買収されて民族虐殺に追随する共犯者と受け止められはしないだろうか。

遅すぎる決断 善光寺聖火リレー辞退

 善光寺が聖火リレーの出発地となることを辞退した。
 中国は1950年から現在に渡ってチベットへの侵略と民族虐殺を続けている。今年3月に行なわれた中国政府に反対するデモが中国軍によって弾圧されたことをきっかけに暴動が発生し、チベット仏教の僧侶などが多数殺害・拘束された。

 それにも関わらず、日本の仏教界はいったい何をしているのだろうか。私の知る限りでは、いくつかの仏教団体がささやかな声明を出した程度だ。それも、「今回、そのラサ市をはじめ中国各地において僧侶・市民と治安部隊の衝突により多くの死傷者が出ている深刻な事態に対し、私たち日本の仏教徒は深く憂慮しています。関係者に対しては、暴力に訴えることなく、対話による問題解決の可能性を模索するよう強く求めます。」(日本仏教会)とある。「僧侶・市民と治安部隊の衝突」「関係者に対しては、暴力に訴えることなく」では、誰が悪いのか全く分からない。同じ仏様の教えを信じる仲間ではないのか。声明文の文字数で考えても、首相の靖国神社参拝に反対する声明の半分以下である。誰がどこの神社に行っても、少なくとも死人は出ないのに。靖国神社参拝や国民投票法への反対運動と同等以上の熱心さでチベット仏教弾圧を論じている宗派はほとんどない。

 善光寺も聖火リレーに協力することに大した罪悪感はなかったようだ。出発地辞退を決めたのも4月18日になってからであり、若麻績寺務総長は「本当は『どうしても』という気持ちがあったが、いろいろな事情から辞退するしかないと考えた」と無念ながらに語ったという。善光寺にとっては、聖火リレー出発地辞退は迷うほどの事であったのだ。

 それでも、善光寺の聖火リレー出発地辞退は素直に歓迎したい。チベットで僧侶らが殺されている中で日本の由緒ある寺が北京オリンピックに協力している姿が世界中で報道されると思うと、とても恐ろしい。それが回避されて本当に良かった。
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